あつき

このページでは、阪神淡路大震災で「人の温もり」「思いやり」を感じた被災者の体験談を4つほど紹介します。今回ご紹介するのは、「人の温もりを感じた話」「辛い過去を乗り越えた経験」です。過去の災害からご自身の防災の備えの参考にしていただければ幸いです。

阪神淡路大震災とは

まずは阪神淡路大震災がどんな怖い災害だったのか、おさらいしていきましょう。

阪神淡路大震災は、平成7年1月17日に明石海峡を震源とするM7.3の直下型大地震。 最大震度は淡路島の震度7。兵庫県を中心に、大阪府や京都府、神戸が甚大な被害を受けました。犠牲者は6,434人以上とも言われ、当時は戦後最大の大規模災害と呼ばれたほどです。

とくに、人々を悩ませたのがライフラインの断絶。震災により断水した世帯は126万戸以上、当時の全供給戸数の90%以上が水道が使えない生活を余儀なくされたのです。復旧にかかった日数は90日、約3ヶ月もの間、蛇口から水が出ない状況が続いたのです。

しかし一方で、この阪神淡路大震災から「仮設住宅の重要性」や「活断層」が注目されるようになり、「建築法の改正」が行われました。私たちの日常は、こうした尊い犠牲から保たれているのですね。

そんな大災害を経験した被災者の方たちが、貴重な体験談をお寄せくださいました。ただし、震災にトラウマのある方は、当時のことを思い出すかもしれません。ご注意願います。

被災体験その1.一杯のラーメンに涙した話

被災女性Dさん被災女性Dさん

私は中学の時に、阪神淡路大震災に合いました。震災で住む家も食事も失ってしまった私の被災体験をご紹介いたします。

阪神淡路大震災で家が全壊!住む家も食べる物も失ってしまった

阪神淡路大震災により、私の家は全壊に近い状態でした。「これは夢ではないのだろうか。本当にこんな事がおきるのものか?」と思いながら、毎日余震が続く中、ずっと不安を抱えていました。

当時は給水もままならず、ガスも使うことができませんでした。そんなライフラインが満足に通らない中、 避難所で生きた心地がしない生活を送っていたのです。私は今まで食べることにも苦労したことがありませんでした。そのため、自分の無力さを痛感するとともに、親戚や友達は「ちゃんと無事なのだろうか、食事に困っていないのだろうか」と不安で頭がいっぱいになりました。

しかし、不安を数えればキリがありません。とにかく今は、自分たち家族の命が無事であったことに、とにかく感謝しようと考えました。今思い出せば、本当に辛い経験をしました。

叔母が食べさせてくれた「普通のラーメン」に涙

そんなある日のことです。 親戚の叔母ちゃんから「こっちは無事やで」と急に連絡があったのです。さらに嬉しいことに、叔母宅に避難させてくれるとのこと。叔母の家は、私の実家から少し離れていますが、震災の影響が最小限ですみ、電気もガスも水道も問題なく、食べ物も確保できるとのことでした。

連絡があったその日から、お世話になることになりました。 その日の夕食はラーメンをだったのですが、一週間ぶりの温かい食事に本当に感謝して、涙がこぼれました。 たかがラーメンですが、本当に嬉しかったのを覚えています。

震災後に生まれた「親族の絆」

今思えば、このような温かな叔母ちゃんがいなかったら、私はどうなっていたかわかりません。 叔母は、実家にいて母のお母さんをもみてくれているほど、世話好きな人です。 とても優しく優しい叔母ちゃんで大好きです。

電話をもらった日から、毎日お風呂にも入る事ができてほっとしたと同時にうれしかったです。

このようなことがあって以来、 今では叔母が困ったときには飛んで助けにいきます。私はいつか叔母に恩返しがしたいと思っているほどです。それまで、親族といってもさほど付き合いはありませんでした。しかし、阪神淡路大震災ゾ後、「助け合い」がいかに大切かということを知りました。親兄弟はもちろんのこと、例え遠縁の親戚であっても、普段から仲良くしておくことが大切なんだと、心から実感しました。

被災体験談その2.阪神淡路大震災で小学生に勇気づけられた話

被災女性Aさん被災女性Aさん

私は阪神淡路大震災の時被災した一人です。当時は大学生でしたが、家も半壊し、家族とともに命からがら逃げ出しました。そのとき、ひとりの小学生に心を救ってもらったのです。今回は、そんな私の体験談を紹介します。

震災でパニックになり生きる気力をなくした

阪神淡路大震災後、家は半壊しましたが、幸いにも何とか命からがら逃げたおかげで、家族はみんな無事でした。

しかし、地震のショックや友人の安否が不明なこと、日用品どころか着替えもなく着の身着のままなこと、お金が無くなってしまったことなど、今後の生活不安や心配が同時に襲ってきました。

人間いろんなことがあるとパニックを起こして泣き喚くというより、呆然としてしまうんですね。当時の私は、顔に全く生気がなく、四六時中ぼーっと一点を見つめていたと両親から聞きました。

過酷な避難所生活では「死んだ方がマシ」と考えていた

私たち家族は避難所での生活を余儀なくされ、配給生活で暮らしていくことになりました。その避難所には、ご近所に住んでいる方たちがたくさん避難しに来ていました。広いフロアに、毛布やビニールシートで自分のスペースを確保しているような状況でした。プライバシーも何もありません。正直こんなことになるなら死んでしまったほうがましだったんじゃと思ってしまった程です。その時の私は、避難所に移ってから、ずうっとシクシク泣いてばかりいました。

避難所先の小学生が一生懸命励ましてくれていた

そんなときのことです。たまたま私の隣のスペースに小学校低学年の男の子がいるご家族がいました。その男の子は、見ず知らずの私を励まそうとずっと話しかけてくれたんです。

最初は「お姉ちゃん何で泣いてるん?」「大丈夫?」という心配そうな感じでしたが、だんだん学校の話やお友達の話など世間話をしてくるようにしました。最初は話しかけられても気持ちが沈んでいたのであまり相手にしなかったんですが、こちらの反応がどんなに薄くても話しかけてくるんです。

関西の男の子なのでボケたりつっこんだりと面白い話もしてくるんです。次第に私の心がこの男の子を受け入れるようになり、反対に私もこの男の子にいろんなことを話しました。

不思議なもので話すと、すーっと気持ちがすっきりしたのを覚えています。「ああ、私は旨のモヤモヤを誰かに聞いてほしかったんだな」と、はじめて自分の気持ちを理解できました。

少年の思いやりで「心の重り」が消えた

この少年と話すようになり、私の心の「オモリ」がなくなった感じがしました。避難所を先に出たのはその男の子一家でしたが、ずっと話しかけ続けて元気づけてくれたことを感謝していると伝えてお別れしました。

この少年とご家族の連絡先がわからず、あれから会うことはありませんが、この優しい男の子は、今でも誰かを勇気づけている立派な青年になっていることと思います。

あの時、私を励ましてくれて、ありがとう。

被災体験談その3.人の心を感じた阪神淡路大震災

 

被災男性Aさん被災男性Aさん

阪神淡路大震災を経験した被災者です。震災後、被災者が被災者を助ける、そんなシーンに出会いました。人の助け合う姿を垣間見た、そんな私の体験談をご紹介いたします。

揺れは無事だったものの火災が発生し危険を感じた

僕は15年前まで神戸市民でした。地元である神戸に住んでいたときに、被災しました。

幸いにも、僕の自宅は岩盤が強く高台の方にあったため、道路がところどころひび割れする程度で済んだ地区です。しかし、10キロほど離れた町から火事が発生し、その煙が自宅周辺までまでたちこめてきたのです。命の危険を感じました。

被災者が自主的に炊き出しをはじめた

ようやく火災も落ち着いた頃でしょうか。地元の商店街の人たちが、我先にと炊き出しを始めたり、おにぎりを配給したりし始めました。 ご自分たちも被災者なのにも関わらず、困っている人たちのために一生懸命に頑張っているのです。

僕は勤務先に向かうまでの道中で、そんな商店街の人たちに出会いました。すると、どこからともなく「これどうぞ!」「食べなさい」と言う元気で優しい声がしたのです。渡されたものを見ると、小さくほんのりと温かいおにぎりが、ふたつ透明の容器に入っています。

僕は有り難くおにぎりをいただきました。おにぎりを口に含んだ途端、涙がボロボロあふれ出てしまい、なかなか食べることができませんでした。商売をされている方は強くてたくましい、そんな想いでいっぱいでした。

避難生活で本当に必要なのは「人間の心」

見ず知らずの方の優しさが、これほど心に染みた事はありません。

その後、町は復旧していきましたが、僕はあの道での出来事を思い出すたびに、おにぎりの温かさとその時の涙を思い出します。

災害支援で「やらない偽善よりやる偽善」とはよく聞きますが、本当に必要なのは人間の心だと思います。あのとき、例え偽善の心であったとしても、人から優しくされた事はいつまでも忘れません。

僕も人が困っている時に優しく手を差し伸べる事が出来る人間になりたいと、この時感じました。この話は、そんな自分がしてもらって嬉しかったこと、震災から学んだ大切な出来事です。

被災体験談その4.名前も知らない人に助けられた話

被災女性Aさん被災女性Aさん

私は阪神淡路大震災の被災者です。震災当時に、見知らぬ周囲の方と助け合った体験談を紹介します。

知らない人からミルクや毛布を譲ってもらった

阪神淡路大震災時、とても有り難みを感じたのは、近所の方々やまた見知らぬ人との助け合えらことです。

被災当時我が家では、子どもがまだ1歳にも満たない歳でした。育児用品はおろか、食べるものさえままならない状態でだったのですが、偶然にも一緒にいた避難所の人に、ミルクや毛布を譲ってもらいました。もちろん見知らぬ方で、県外からやってきたと話してくれたのを覚えています。

お返しに、私自身も県外の親戚から分けてもらった食料などを、分け合ったりして何とか命を繋いでいたのです。

自宅は足の踏み場もない荒れた様

余震も落ち着いたころ、自宅に帰りました。幸いな事に、自宅は多少ひびが入ったり、ドアの開きが悪くなったたりした程度で済んだのですが、家の中は食器やテレビが落ちてきてしばらくは足の踏み場もないほどでした。

家の中はひどい有様だったとはいえ、そのまま住み続けることができる程度だったので、避難生活もそこまで長くかかることもなく、元の生活に戻ることができました。

短い避難生活で感じた「助け合うことの大切さ」

震災直後はいろいろと大変な事が多々ありました。

まず、日用品や食料品を買出しに行ってもどのお店も品物がまったくないこと、おまけにライフラインも震災直後には止まっており、水道も使えないという状態だったことなどです。

しかし、あの辛い避難生活を無事過ごせたのは、見知らぬ人との助け合いでした。

この経験を通じて思ったことは、いかに人と人との助け合いが大切かということです。非常時だからこそ、人との繋がりの有り難さが身にしみて実感した、そんなお話でした。

まとめ

あつき

貴重なお話ありがとうございました。
災害時だからこそ、「人の何気ない優しさ」に涙することってたくさんありますよね。日本人ならではの、思いやりや気配りを強く感じたのではないでしょうか。防災の備えは、自分たちのみならず、誰かの助けになることもあります。用意しておいて、損はありません。小さな備えが、隣にいる人の命を繋ぐ大きなチカラになることもあるのです。
あなたの「たったひとつの備え」が、見知らぬ誰かの命を救うかもしれません。


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