阪神淡路大震災で命の大切さと儚さを思い知った体験談2つ

あつき

このページでは、阪神淡路大震災で「辛く悲しい想い」をした被災者の体験談を2つ紹介します。今回ご紹介するのは、「命の大切さ」「人の儚さを思い知った」お話です。過去の災害からご自身の防災の備えの参考にしていただければ幸いです。

阪神淡路大震災とは

まずは、阪神淡路大震災がどんな怖い災害だったのか、おさらいしていきましょう。

阪神淡路大震災は、平成7年1月17日に明石海峡を震源とするM7.3の直下型大地震。 最大震度は淡路島の震度7。兵庫県を中心に、大阪府や京都府、神戸が甚大な被害を受けました。犠牲者は6,434人以上とも言われ、当時は戦後最大の大規模災害と呼ばれたほどです。

都市部の直下型地震ということもあり、被害は甚大で、揺れや火災で全半壊した住宅は25万棟以上、当時は耐震基準が今よりも低かったことから、揺れによる家屋の倒壊で命を落とした人が多かったとされています。

この阪神淡路大震災後、被災者を救うため100万人以上の有志者が集い、たくさんのボランティア団体が設立されました。この災害後から、多くのボランティア団体が復興活動に参加するようになったため、阪神淡路大震災が発生した1995年は「ボランティア元年」と呼ばれています。

そんな大災害を経験した被災者の方たちが、貴重な体験談をお寄せくださいました。ただし、震災にトラウマのある方は、当時のことを思い出すかもしれません。ご注意願います。

【被災体験談】命の大切さ「死」という重み阪神淡路大震災で知ったこと

Iさん

阪神・淡路大震災にあった20年前のことです。当たり前のことかもしれませんが、私は阪神淡路大震災を体験して「命の大切さ」と「死という重み」を感じました。そんな私の体験談をお聞きください。

命の大切さ「死」という重み阪神淡路大震災で知ったこと

この震災で「人は死ぬ、子供だって自分より先に死ぬ」ということを知りました。

テレビのニュースで、数々の子どもが被害にあう痛ましい事件を見る度に「なんでこんなことが起こるのか」と思ってきました。しかし、今思うと、やはりそれはどこか遠い所の話であり、画面の向こうで起こっている、実感の伴わない話だったのです。

ところが震災が起こり、当時教師をしていた小学校の校区はほとんど壊滅状態となりました。古い木造アパートや路地が連なる昔からの町は、数秒間の揺れでほとんどが瓦礫となってしまったのです。そのがれきに埋もれて逝ってしまった子ども達も大勢いました。

私は教師ですが、去年まで自分のクラスで一緒に楽しく過ごしてい子どもたちが亡くなったと知り、呆然としました。

行方不明の教え子が遺体で発見された

中でも忘れることのできない出来事がありました。行方不明になり、なかなか見つからなかった子が、やっと掘り出されたという話を聞き、急いで運び込まれたお寺に向かいました。

すると、ふすまを外し、広間のようになった寺の隅で、早出で難を逃れた父親が、亡くなった子とお姉ちゃん、さらに自分の妻の遺体の枕元に、呆然と座っていたのです。

3人とも、崩れたアパートから運ばれてきたばかりで、土やほこりで体中が汚れていました。子供の父親は濡れたタオルを持ち「痛かったやろう、苦しかったやろう」と泣きながら、三人の顔や手足の汚れを拭いてあげていたのです。それを見て何も声をかける事が出来ず、ただ手を合わせ、頭を下げて学校へ戻りました。

人はみな誰でも命を失うことがある

ちょうど結婚して自分の娘が生まれ、それから一年もたたないうちに起こった震災。

それで実感したことは「子どもだってあっという間に死んでしまうのだ、人間は年の順に死んでいくわけではないのだ」という当たり前の事実でした。

自分の娘だって何かあれば明日にはいなくなってしまうかもしれない、そんな事実を目の当たりにさせられたのが、この阪神淡路大震災でした。それ以来、子どもたちがたとえ冗談であっても「死ね」という言葉を使う事に対して敏感すぎるほど敏感になり、時には我を忘れて起こるようにもなったと思います。

「命の大切さ」という言葉をよく聞きます。しかしそれは、自分に降りかかってみないと本当には分からないことなのかもしれません。そんなことも考えさせられた20年間でした。

【被災体験談その3】阪神淡路大震災で教え子が下敷きに・・・!

Kさん

わたしは、20年前の阪神・淡路大震災の時、私は被害の大きかった地域にある、小学校の教師をしていました。そのときに、教え子が下敷きになってしまった辛い思い出があります。

当時、わたしが被災した地域は、木造のアパートや中小工場が多く、迷路のような路地が多い場所でした。たくさんの花が植えられていた我が校区、震災前はどれはキレイな地域だったのです。

災害後に避難所では「優しさ」「思いやり」があふれた

しかし、震災後そこに佇んでいた大半の家がつぶれ、細い道に覆いかぶさった瓦礫は、その道さえもどこにあるのかわからなくしてしまったほどです。揺れがおさまった後、たくさんの人が学校の教室に避難してきました。避難所は、人で溢れかえりました。ところが、避難所は混乱するどころか、「優しさ」「思いやり」もあふれていたのです。

下町独特の親密さがあったからでしょう。せまい場所を譲り合い、少ない食べ物を分け合い、助け合う姿がそこにはありました。また俗にいう「世話好きの近所のおばちゃん」が、何かと困った人の世話を焼いてくれていました。

それはまるで、教室の中のリーダー的存在というのでしょうか。もめごとの間に入って話を進めてくれたり、子ども達の安否を教師以上に正確に確かめてくれたりしてくれていました。有難いことです。

もう二度と会えなくなってしまった教え子もいた

そんな中、訃報もありました。わたしの教え子が数名、家の下敷きになってしまったというのです。

わたしは、この悲しみを受け止めきれずにいました。子どもの葬式に出なければならないこと、この間まで自分のクラスでみんなと一緒に楽しく過ごしていた子たちが、もう二度と目を開けなくなってしまったことが、とても信じられませんでした。

阪神淡路大震災は、1月に発生しましたが、3月になっても復旧のめどがなかなか立ちませんでした。何とか授業再開できたものの、学校が避難所でしたので、たくさんの人が生活をしている中で同居しながらの学校生活でした。

つらい避難生活の中も前に進む人たちの姿があった

そんな中、ふと歩いていた廊下の窓際に、水の入ったガラスコップに活けられた野の花を見つけました。

それと、復興支援で送られたのでしょうか、貝に着物の生地を巻きつけて作ったかわいいお雛様が、手洗い場の台の上に飾られていました。避難生活で忘れていましたが、雛祭りの季節なんだなと思い出しました。

苦しい日々の中に感じた「小さな光」

やがて玄関前のホールには、様々な伝言の貼られた掲示板や、無料で設置された緊急用の電話の横に、段飾りのお雛様が飾られました。自分の家が無くなり、明日の生活さえどうなるかわからないような生活の中で、ほんの小さな明るさを見つけ、そしていつも通りの生活を続けていこうとする人々の心がそこにはありました。

わたしは、避難所に飾られていた小さな野の花や古びた雛人形に「人間の強さ」を感じました。例えどんなに小さく、消えてしまいそうな苦しい絶望的な生活の中にあっても、人の心の中にある光は、決して消えないのだと思いました。

まとめ

あつき

貴重なお話ありがとうございました。

わたしも父親を亡くしているので、命の儚さはとても良くわかります。命が消えてしまうことがわかりながら、何もできない無力感ははかり知れないものがあります。しかし、亡くなる命もあれば、こんな状況の中で生まれる命や生きようとする命があるのも事実。

震災体験後、同じような悲しい思いをする人がひとりでもいなくなるように、備えの大切さを伝えていきたいと思います。辛い思いでお話いただいて、ありがとうございました。

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